この記事では フィリピンとセブ島の歴史をご紹介します。
主に参考にした文献は下記に記載していますが、部分部分、書かれた方や参考資料によって歴史観が異なるため、合わない箇所があるかもしれません。
あくまで この記事の目的は大まかなフィリピンとセブ島の歴史の流れを知ることです。予めご了承ください。
CONTENTS
フィリピンのセブ島は観光地として非常に人気のスポットです。
歴史的建造物が立ち並ぶ街並みは、一気にタイムスリップしたような雰囲気があります。
フィリピンセブ島は、1521年にポルトガル人の航海士、フェルディナンド・マゼランがスペイン領土を広げる為に上陸した島です。
マゼラは東方にスペイン領土を広げる事を目的とした旅を続け、後に世界一周を初めて成し遂げた人物としても有名です。
フィリピンのセブ島に上陸したマゼランは、セブ島のラジャ・フマボンとその王妃、そして約400人の住人にキリスト教の洗礼を与えました。
これがフィリピンのキリスト教の始まりでもあります。
フィリピンセブ島でのキリスト信教がこの頃から始まり、キリスト教信教が浸透していったのです。
セブの守護神とされているのは、幼き頃のイエスキリスト、サントニーニョであり、その像もスペインとセブ島に平和の証として存在しています。
マゼランはこの航海でフィリピンのセブ島での宣教と同盟に成功したのです。こうして1521年にマゼランがフィリピンセブ島に上陸したのをきっかけに、植民地として時代が始まり大きく歴史が動き始めました。
フィリピンはマゼランがセブ島に上陸してから、植民地としての時代が続きました。
マクタン島をスペインの領土と宣言し、次々と各都市を占領しスペイン統治時代が始まったのです。
当時、 世界は大航海時代と言われていたのを知っていますか?各国が植民地となる土地を求めて、世界中を探求していた時代があったのです。
マゼランもフィリピンのセブ島を発見し、植民地として領土を広げて行きました。
当然、フィリピンの当時の首長ラプラプは激怒し、マゼランとの間で争いが起こりました。
1521年4月27日マクタン島の戦いです。
この戦争で、マゼランはセブ島の東の沖合に位置するマクタン島で殺害されてしまいました。
その後のフィリピンは…?
この先もセブ島はスペインの植民地としての長い歴史をたどる事になります。
マゼラン上陸から44年後、再びフィリピンセブ島に上陸したのは、ミゲル・ロペス・デ・レガスピと言う人物。
レガスピは遠征隊を引き連れ、フィリピンセブ島をスペインの植民地として開拓する為に攻撃を仕掛け、制圧したのです。
マゼランの死後、スペイン人のフィリピン征服の試みは続きますが、どれも失敗に終わります。しかしついに1564年レガスピ率いる第6次遠征隊はセブ島と制圧し、1569年にはパナイ、1570年にはマニラを占領します。
レガスピはマニラを首都と決定し、1596年にはミンダナオ島、スルー諸島に攻撃を仕掛けるが、マレー人の激しい抵抗に屈します。
スペイン統治時代、フィリピン南部は最後まで征服する事が出来なかったと言います。
マゼランがセブ島を発見し、ラプラプに殺害されてから、スペイン統治時代は約333年程続きました。
今でも、マゼラン部隊を倒しマゼラン本人も殺害した首長ラプラプは、フィリピンで英雄として愛されています。
フィリピンには、スペイン人が建てたマゼラン碑と、フィリピン人が作ったラプラプの像が距離にして10m以内の所に建てられています。
こうしたスペイン統治時代の末期、フィリピンでは民衆の間で独立運動が盛んになっていました。
そして1898年、アメリカがフィリピンの独立運動を支援すると言う名目で、スペインと米西戦争が起きました。1898年8月13日にアメリカは戦争に勝利し、アメリカが今度はフィリピンを植民地としたのです。
アメリカはフィリピンに自主統治を認め、1899年6月12日にはフィリピン第一次共和国として独立を果たしたのです。この当時の初代大統領がエミリオ・アギナルドという人物です。
しかしこの背景には、アメリカはスペインに2000万ドルもの大金を払って、フィリピンの統治権を買い取った事実もあるとも言われています。アメリカを信じていたフィリピン人は、すっかり騙されていたのですね。自主統治は認めたものの、本当の独立には至らず、北西戦争の終結によって結ばれたパリ条約によって、フィリピンの領土はアメリカと割穣されたのです。
これにはフィリピン人も猛烈な抵抗をしたそうで、これをきっかけにアメリカとフィリピンの間で戦争が勃発してしまったのです。
これを米比戦争と言い、この戦争で60万人のフィリピン人が殺害され、大統領のエミリオ・アギナルドがアメリカ軍にとらえられ、フィリピン第一共和国が崩壊しました。
以降、アメリカはフィリピンに過酷な植民地支配を強いていくようになったのです。
独立までの長い戦いしかし、1916年再度フィリピンの独立の機会が訪れました。
マニェル・ケソンの力によって、アメリカ議会でフィリピンの自治を認める法律が可決し、10年後フィリピンの完全独立が約束されたのです。
しかしそんな喜びもつかの間、第二次大戦の勃発により、アメリカと日本の間で戦争が起こりました。
その際日本がフィリピンのセブ島を占領し、フィリピンを終戦までの3年間統治していた事を知っていますか?
現在のフィリピンと日本は友好的な関係で、特にフィリピンのセブ島は観光地として多くの日本人が訪れています。
第二次世界大戦の頃、当時はアメリカがフィリピンを統治していたのですが、日本がセブ島に上陸しアメリカに攻撃を仕掛けたでのす。その後、アメリカは一旦撤退し日本の統治が始まりました。
フィリピンのセブ島はフィリピンで最も人口が密集していた為、セブ島は物資の補給地や軍事の拠点とされていました。
第二次世界大戦中、日本はフィリピンに攻撃をかけ占領しようと攻め込んだと言います。1942年1月に日本はフィリピンのマニラを占領し、1945年8月の終戦までフィリピンは日本が統治していました。
日本が攻め込んで来る以前、アメリカは民衆運動の活動の効果でフィリピンに自主統治認めていました。
国民の教育水準の向上やフィリピン人が英語を使用するようになるなど、アメリカはフィリピンに対して理解を示していたと言います。
独立の希望が見え始めた矢先、第二次世界大戦のさなか、日本が侵略してきたと言う訳なんです。しかし、独立を夢見ていたフィリピンは独立をあきらめてはいなかったのです。
スペイン、アメリカ、そして日本と統治時代を重ねるごとに、独立への情熱の火は燃えあがっていきました。
その後、日本が第二次世界大戦で敗北したことによりアメリカがフィリピンを奪還したのち、アメリカ軍のマッカーサによってフィリピンは1946年7月4日にフィリピン共和国としてやっと独立を果たす事が出来たのです。
・・・とここまで書きましたが、この考えはそもそもGHQによって戦後アメリカ=善、日本=悪とする印象を植え付けられたフィリピン人と日本人の考え方です。残念ながら日本人だけでなく、ほとんどのフィリピン人は当時の日本=悪という考え方を現在も持っています。
日本がフィリピンを必要としたのには理由があります。ぜひ別の見方もご参考になさってください。
しかし、独立をしたのもつかの間、マルコスの独裁政権が始まり、フィリピン市民の苦悩はその後もしばらく続きました。
今では観光スポットとなっている、セブ島の「サン・ペドロ要塞」は日本がフィリピンを統治していた時、捕虜を監禁しておく為に使用していました。(元々は1700年代にムスリム勢力からの攻撃を防ぐために作られたそうです。)
実はセブ島の有名な観光スポットには、そのような戦争時代の残酷な歴史があるのです。
今では、戦前から存在する歴史ある建造物として大事に扱われています。
サン・ペドロ要塞はその時の象徴のような建造物で、ぜひ観光に訪れた時にはその時代の歴史を感じてみると、また違った見方が出来ますね。
実は約333年ほども長く続いたスペイン統治の時代、忘れてはならない重要な人物がいます。
1860年代に入るとフィリピン市民の間で、独立の意識が高まって来ました。
その当時、民衆の間ではフィリピン独立を目指す運動が盛んに行われていたんです。
そして、その独立解放運動の先頭に立って指揮をとっていたのが、「ホセ・リサール」と言う人物。
ホセ・リサールは医師、画家、著作家でもあり、フィリピン独立運動に火をつけた国民的英雄です。スペインからフィリピンを解放する為の活動の指揮をとり、後に解放運動の父とも言われています。
解放運動の総指揮官と言う事で、スペイン軍に逮捕され、1896年12月30日にマニラで銃殺されてしまいました。
しかしながら、ホセ・リサールの死はフィリピン人にとって無駄ではなかったんです。ホセ・リサールの遺志はフィリピン人すべてに受け継がれ、ホセ・リサールの死後独立運動は激しさを増して行きました。
今でもフィリピンではホセ・リサールは独立の英雄として愛されて続けている人物です。
ホセ・リサールが銃殺されたマニラ湾を見渡せる場所に、追悼の意味を込めてリサール公園があります。公園内には記念碑もあり、この公園はフィリピンが独立する事が出来た象徴でもあり、マニラ市民の憩いの場所でもあります。
ちなみに、リサールは1888年に来日しており、一カ月程東京に滞在していました。
東京都の日比谷公園にはホセ・リサールの記念像があります。
フィリピンを独立に導いたとして有名な英雄と言えば、先ほどご紹介したこのホセ・リサールが挙げられるでしょう。
しかし、もう一人、フィリピン革命の父と言われる英雄が居ます。
その人物は、「アンドレス・ボニファシオ」です。
アンドレス・ボニファシオは史上初めて革命を起こした人物です。フィリピンをスペインから解放する為の武装秘密組織、カティプナン(KKK)を結成しました。
ホセ・リサールはペンを片手に解放運動を広めて行きましたが、ボニファシオは武力革命こそスペインからフィリピンを解放する方法だと確信していたのです。
二人の目的はフィリピン解放ですが、その方法は全くの真逆だったんですね。そして、スペインからの解放へホセ・リサールが流刑となった1892年に、ボニファシオは武力組織、カティプナンを結成しました。
平和革命運動では、スペインからフィリピンを完全に独立させる事は不可能だと考えられていました。
ボニファシオが結成したカティプナンは、アジアを植民地として開拓して行くヨーロッパ政府に対して抗議運動を起こして行きます。
やがてボニファシオが結成したカティプナンは、スペインからフィリピンの解放を実現させたのです。その後、独立勢力内部の対立により、アンドレス・ボニファシオはエミリオ・アギナルドらの武力によって1897年5月10日に処刑されました。
ボニファシオはフィリピンを独立に導いた革命家として、今でもフィリピンの英雄的存在であり、市民から愛されている歴史的人物です。
マルコスとは?
フィリピンの歴史に詳しくなくても、フィリピン元大統領であるマルコス大統領の名前は誰でも一度は耳にした事があると思います。
マルコスはフィリピン共和国の第10代目大統領となり、以降20年間もつとめてきましたが、マルコス大統領は独裁政権を振りかざし、テロやゲリラが日常化し、民衆はマルコス政権に不満を募らせていきました。
マルコスは妻であるイメルダ夫人と共にフィリピンの権勢を思いのままにしており、それはマルコス王朝と呼ばれる程。
つまり結局のところマルコス政権の時代、フィリピンは植民地時代と変わりない締め付けを受けて生活していたということなのです。こうして国内、国外からマルコスの独裁政権を批判する声が強まって行ったのです。
このマルコスと政治的に対立していたのが、ベニグノ・アキノ元上院議員です。
▽写真の500ペソのお札の人物画は彼です。
マルコス大統領は、反マルコス政権運動を行っているベニグノ・アキノ元上院議員をアメリカへ亡命させるまで追い込んだのです。こうしてアメリカに亡命したベニグノ・アキノ氏は、反マルコス政権運動を続けており、市民にとっては希望でもありました。
しかし大統領選挙再選の為帰国したフィリピンの空港で暗殺されました。
この暗殺事件は、世界中がその映像を放送しており、非常に有名で衝撃的な事件です。
アキノ氏暗殺事件をきっかけに、争い事を好まず心優しいフィリピンの民衆は、マルコス政権の独裁主義に反発する為に徐々に団結の輪を広げます。
暗殺されたアキノ元上院議員の妻、コラソン・アキノ氏は後にマルコス大統領を退けて、フィリピン大統領となる人物です。
マルコスにコラソン・アキノ候補との大統領選挙中、不正が発覚しアキノ暗殺事件、そしてこの不正事件をきっかけに民衆は立ち上がったんです。
市民の力が遂に結集!
このマルコスの不正発覚にはもうフィリピン市民は黙っていることができませんでした。
フィリピン市民の怒りは爆発し、マルコスに抗議する為にマニラにあるエドサ大通りに100万人が集まり素手で立ち向かいました。
マルコスの対する抗議運動はフィリピンの各地で行われ、マルコスは支えられて来た軍やアメリカ政府(当時はレーガン大統領)からも見放され、マルコスは亡命せざるを得なくなったのです。
この一連の出来事は「エドサ革命」と呼ばれており、フィリピン市民が自らマルコス政権を崩壊させ新時代を切り開いたと言う誇れる事件なんです。
こうして2月25日にはベニグノ・アキノ氏の妻、コラソン・アキノ氏が大統領就任宣誓を行い、フィリピン共和国第11代大統領が誕生することとなりました。
この翌年には現代のフィリピンの礎となる新憲法も成立しています。ちなみにマルコス夫妻はマラカニアン宮殿にてマニラ市民により包囲され、アメリカ軍のヘリコプターで脱出しました。
そしてそのまま一族とともにハワイへ亡命、ようやく20年以上にも及んだマルコスの独裁政権に終止符がうたれたのでした。
フィリピンのセブ島は現在リゾート地として人気のスポットで、年間を通して多くの観光客が訪れます。
セブ島はフィリピン最古の都でもあり、歴史的建造物やフィリピンセブ島の歴史を物語る名所がたくさんあります。
人気のスポット、サンペドロ要塞は、フィリピンがスペインの植民地だった頃、初代提督ミゲル・ロペス・デ・レガスピによって建てられたものです。
フィリピン最古の要塞として有名で、1565年に建設が始まり完成したのは1738年だったと言います。
イスラム教徒などの攻撃から逃れる為に建設されたサンペドロ要塞は、かつてフィリピンが日本の植民地だった頃、捕虜の収容所としても使用されていたんです。
有名なマゼランクロスは1521年にポルトガル人の航海士マゼランが、フィリピンのセブ島に上陸した時に建設された巨大な十字架です。
サンオーガスチン教会はサントニーニョ教会とも呼ばれています。サントニーニョと言う言葉には、幼いイエスキリストの像の事を意味しています。
マゼランがキリスト教をセブ島に布教するのと同時に、幼き頃のイエスの像、サントニーニョがセブ女王に送られました。
その時のサントニーニョ像がこのサンオーガスチン教会に収められています。サンオーガスチン教会は破壊や火事によって何度も立て直されているのですが、いつもサントニーニョ像だけは無傷だったと言います。
その事から、セブ島の守護神としてサントニーニョ像はあがめられており、セブ島の家やお店には必ずと言ってもいいほどサントニーニョ像が飾られています。
なお残念ながらそのサントニーニョ教会は、2013年に起こった地震で倒壊してしまいました。
以上がフィリピン及びセブ島の大まかな歴史になります。
細かい歴史内容は別として、大きなフィリピンの流れを留学前に掴んでおくことで、より留学生活が充実したものになるはずです。
大小7100以上の島々からなる東南アジアの島国フィリピンは、島ごとにも特徴が異なります。 国全体に美しいビーチリゾートが散在しており、高級リゾートから自然の美しさを生かしたトロピカルな雰囲気漂うリゾートまで様々。 フィリピンは熱帯性気候のため、1年を通して暖かく、マリンスポーツなどリゾート気分を味わえるのも魅力の一つ。 日本からも4時間の距離にありながら世界第3位の英語使用国のため、フィリピン留学では比較的気軽にリーズナブルに語学を学ぶことができます。